大隅(鹿屋市)歴史探訪

郷土史講座現地研修に参加した。中世の山城、高隈松尾城跡は急坂もあり、トレッキング気分を味わいながら山頂の本丸跡を目指した。その他、古葉薬師や長谷城跡、花岡島津墓地など主に鹿屋北部地区の文化財史跡を巡った。

↑土持堀の深井戸
土持堀(つっもっぼい)の深井戸は笠野原台地の開発の苦難の歴史を物語る貴重な遺跡として、昭和57年に鹿児島県の指定史跡に登録されている。保水性が低いシラスで覆われた笠野原台地のもとでは雨が降ってもすぐ地下に吸い込まれるため、長い間、耕作や生活用水の確保に困っていた。そこで人々は土手で周りを囲み、竹などを植えて風を防ぎ境界ともした。これを「堀(ほい)」という。それでも生活用水が不足するために井戸を掘ったもので土持堀の深井戸もその中のひとつである。掘られた時期は文政年間から天保年間(1818〜1843年)頃と見られている。井戸の深さ約64m、表面の直径約90cm、円筒形の素堀りである。深井戸のため当時は、人力で水を汲み上げるのは大変で、牛に綱を引かせて井戸水を汲み上げていたという。1927年(昭和2年)、笠野原簡易水道ができ、水の苦労がなくなった。

↑観音淵中世古石塔群
観音淵は地下水が長い年月をかけて造り出した天然の洞窟で、高さ8メートル、幅16メートル、奥行30メートルもあり、洞窟の中には、鎌倉時代初期から戦国時代までの供養塔が約90基ある。洞窟入口から見て右側の供養塔は、鎌倉初期にこの地方の開田作業を進めた富山一族の長谷三郎太夫義遠(はせさぶろうだゆうよしとお)一族及び、家臣団の逆修供養塔(ぎゃくしゅうくようとう)と見られる。左側の供養塔は肝付氏のもので、ともに鎌倉初期から富山氏と競って開田作業を進めたものと思われる。逆修供養塔とは、土地開発等の大事業や戦乱、または個人の意志により死後の安楽、極楽往生を願って生存中に建立する供養塔をいう。この観音淵中世古石塔群(かんのんぶちちゅうせいこせきとうぐん)は鹿屋市の指定史跡になっている(昭和56年8月19日指定)

↑高隈松尾城(白石松尾城ともいう)
 高隈城は、中世の初め頃から当地方を支配していた肝付氏の私城として構築されたものと思われるが、南北朝時代の山城として築城形式をふんでいる。南北朝時代から戦国の世にかけて大隅方面の戦乱舞台にたびたび登場してくる。正平6年(1351年)7月11日、この城によった南朝宮方の楡井四郎頼仲(遠江の守)を北朝武家方の畠山直顕の命を受けた祢寝孫次郎清種が攻め、翌日これを落とした記録がある。天文7年81538年)及び11年に新納氏・肝付氏・祢寝3氏の攻防戦も行われている。城郭は、本丸、二の丸等にわかれ、西面は高隈川を利用した自然の水濠にし、土塁、空堀、木戸口をほぼ完全に残す。 MORE→http://www.osumi.or.jp/sakata/bunkazai/takakumazyou.html

↑木場薬師
 鹿屋市文化財指定。仏像自体の作りも古く美麗、文政8年の鹿屋名勝誌にも記録がある。 鰐口は、永正4年(1507)の作で、多くの刻字があり貴重な物である。(昭和62年5月1日指定)

長谷観音・長谷城跡中世石塔群
長谷観音とは、もとは奈良の長谷寺の十一面菩薩立像のことである。 長谷信仰の南限に近い観音で、わが国の仏教の源流を探る上で貴重な像と思われる。鹿屋三観音のひとつで古来住民の尊崇が厚く、数々の伝承がある。永正三年(1506年)の年号と造立の趣旨の記があり、戦国時代にはこの地に鎮座していたことがわかる。

↑花岡島津歴代墓地
花岡島津家墓地は享保9年(1724)薩摩藩22代継豊がその叔父である久儔(ヒサトモ)の為に大姶良郷のうち、木谷村及び野里村の吉国、上原を割いて花岡郷として独立させ、一家をおこさせたものである。荷台久尚夫人(22代継豊ノ妹)岩子姫が安永年間(1772〜1780)に高須川の上流から花岡用水路を引いて領民の便を図った。

↑高須波之上神社古石塔群
板碑は鎌倉時代に中国から伝承した供養塔の一種である。ここの板碑は頂部がやや内側に反って突出し、県内にある他の板碑とは作り方がやや異なっている。6基あるが1基は赤色凝灰岩で柔らかく磨損が著しい。他の5基は黄色凝灰岩(山川石)で造られているため600年近く経た今日でも刻字まではっきりしている。これは県下でも重要な塔姿。

錦江町歴史探訪

錦江町歴史探訪:錦江町の田代・大根占地区の史跡・名所探訪のイベントに参加し、錦江町の自然の美しさと歴史の深さを体感した。
錦江町歴史:縄文時代からの遺跡が町内で発掘されており、この頃から定住があったようである。713年には大隅国が設置され肝坏郡(きもつきぐん)に属したのち大隅郡(1887年に南大隅郡とされる)に属す。平安中期には禰寝院として荘園支配がなされるようになる。江戸時代には外城制(後に郷と称す)が敷かれ、大根占と田代の2郷が置かれた。2005年3月22日、大根占町田代町が合併して発足した。<ウィキ>

↑天神下の傘塔婆<傘塔婆は当初追善供養や逆修供養を目的として造られ、この後登場する板碑や現在用いられている角柱墓、大名墓などの原型でもある。

↑国見城跡<祢寝氏の出城で島津義久が根占巡視の時、国見城に登り感嘆して「天下の名城」であるといわしめるほど絶壁に囲まれた堅牢な城であった。正平7年(1352)南朝方の楡井頼仲、天正2年(1574)肝付兼亮が攻めたときもびくともしなかった。外堀跡や内堀跡も残っていた。


↑旗山神社<旧大根占町にあり、創建・由緒は不詳であるが千数百年前の建立といわれ。旗山神社の柴祭りは正月2日から4日にわたって行われ、初日の一月二日は、安水地区の立神神社をめぐって稲作と狩りにかかわる事始めの行事、二日はシシ狩り始めの行事が行われる。道路を隔てた境内には樹齢約800年以上のオオクスが、その威容を誇っている>http://www.osumi.or.jp/sakata/furusatokaze/tanbou2/sibamaturi.html#zinzya

↑半下石の田の神像<向かって右手にしゃもじ左手にすりこぎを持っている。右足はぞうり、左足は下駄を履いているめずらしい田の神像だ。

↑お茶亭跡<江戸時代、島津19代光久、24代重年、28代斉彬等が来遊した記録が残る。橋の近くに14個の釜跡が残っている。

↑扇落としの滝<花瀬バンガロー近くにある2段、3段と階段状に連続する迫力ある渓流瀑である。島津の殿様が雄大な滝の景観に驚いて手に持っている扇を落としてしまったことから「扇落としの滝」名が付けられたという。

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神川大滝→http://www.osumi.or.jp/sakata/furusatokaze/furusatokaze2/hasi/subkamikawa.html
花瀬自然公園→http://www.osumi.or.jp/sakata/furusatokaze/furusatokaze2/hasi/hanase.html

鹿屋市坂元砲台跡

戦跡探訪<鹿屋市坂元砲台跡>
鹿屋市高須地区学習センターが主催する「まちあるき発見塾in高須・浜田」へ参加した。今回のテーマは鹿児島県鹿屋市浜田町にある「坂元海軍砲台跡」。日本軍は、アメリカ軍を水際で食い止めるために大隅半島各地に砲台を築いた。坂元砲台もその一つだ。砲台は高須海岸南端部に位置する小山の側面に造られていた。ここは近くに高須海岸・金浜海岸と上陸に適した場所があり、その背後には飛行場が点在しているための要衝となる。今回、今も残る砲台跡を見学し、当時をよく知る地元の人の体験談を聞く機会に恵まれた。体験談を聞いた後、地元の人も入ったことのないという砲掩体部の洞窟を探検した。

↑当時をよく知る地元案内人の体験談を聞く

↑砲台の射線を指す地元案内人

↑射線方向の高須海岸、金浜海岸。後方に桜島が見える。

↑コンクリート造りの砲台外観

↑砲掩体部の洞窟探検。50mほど続く素掘りの砲台内部

↑行き止まりの洞窟最奥

↑砲台跡地で体験談を聞く塾生
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※草に覆われていたり、朽ち果てかけていたり60余年の歳月が「戦争」を風化しようとしてこのまま忘れてはいけない。事実・歴史が失われてしまう。記憶から無くさないためにも、その目で足で後世へ繋いでいくために。<しおりより>

歴史探訪(垂水編)

大隅照葉樹原生林の会が主催する垂水歴史探訪に参加した。中世の山城巡りや垂水島津家累代の墓地の見学は、垂水の歴史を知るいい体験になった。特に興味をひいたのは柊原貝塚の埋蔵遺跡だった。非常に保存状態がよく膨大な情報量を秘めた史跡なので今後の新たな発見に期待したい。宇喜多秀家潜伏跡地散策は、秀家がわずか二年あまりとはいえ、垂水の地に潜伏したその背景がおもしろく、改めて歴史をひもどくいいきっかけになった。

○柊原貝塚:柊原下にある遺跡で貝塚は貝のカルシューム分により通常の遺跡では腐敗してしまって残らない骨や種子などが残っている貴重な遺跡である。調査中、多くの出土品が発見され、この出土品自体も、当時の様子を知る上で貴重な資料であるということで平成24年(2012)4月、224点が鹿児島県指定文化財として指定された。

柊原貝塚発掘場所

○高城跡:肥後氏は種子島氏の祖となっている平性肥後守信基の支族で平清盛の曽孫とも言われている。高城は信基の二男、信行の築城とされ、時代は北条氏が執権となった初めごろと言われている。城主:肥後氏→伊地知氏→鎌田出雲守政近(パンフより)

高城の空堀がすごい

○垂水島津氏累代の墓地:垂水島津氏は伊佐島津の出である日新公忠良が島津氏本宗を乗っ取り、本宗となったが長男の貴久が本宗を継ぎ太守となった。二男が忠将である。忠将は永禄4年(1561)7月12日に福山廻城の合戦で討死したので、父日新公はこれをあわれみ忠将の子以久に下大隅の地(現在の垂水新城を主とする)を与えて垂水島津家を興さしめたのである。(石高19000石)代々島津氏の一門家として重きをなし、14代貴徳まで連綿として続き15代貴暢に至り明治維新を迎え華族に列せられる男爵となった。この墓地は垂水島津家累代の墓地である。(案内資料より)

垂水島津家累代の墓地

宇喜多秀家潜伏跡地:慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに敗れた西軍の大将権中納言宇喜多秀家は、徳川方の追求の目を逃れて島津を頼ってきた。義弘は秀家を牛根辺田の平野屋敷において辺田在住の郷士に監視と警備をさせた。秀家は休復となのり、足かけ3年間この地に滞在しその間毎日約3km離れた居世神社に日参し静かな生活を送った。秀家の滞在した家は宇喜多家屋敷と呼ばれた。島津家では家康に秀家の助命を嘆願したが許されず、更に幕臣山口尚友本田正信等を介して願い出た。家康は「これは島津の面目を潰さぬため赦す。」として秀家の助命を約し、駿河の国久能山に2年間幽門ののち八丈島に流した。秀家はそこで84歳で没した。潜居跡には小さな石室型の祠がたっている。(現地案内板資料より)

宇喜多秀家潜居跡平野屋敷


その他探訪箇所
○将軍地蔵 ○垂水城 ○陵 ○居世神社 ○牛根城 

屋久島白谷雲水峡

今回、屋久島の白谷雲水狭の太鼓岩往復コース(約4時間、約5.6km)にチャレンジしました。登山道には「もののけ姫」の舞台のイメージとなったコケむした幽玄な世界とヤクスギ、照葉樹の原生林の世界が広がっていました。最終ポイントの太鼓岩に着くと雲がかかり、小雨まで降り出し、全く視界不良、それもつかの間、あっという間に雲がとれ、目の前に宮之浦岳を眺望する絶景の世界が広がってきました(*^_^*)。このコースでは今が旬のシャクナゲの開花を見ることはできませんが林内を流れる白谷川の切り立った清流の川岸にはサツキが彩りを添え、屋久島ならではの自然の庭園を味わうことができました。登山日:2014年6月9日



↑苔むした幽玄な世界が広がる登山道樹林内



↑登山道脇のヤクスギ



↑太鼓岩からの眺望



↑白谷川の清流と川岸のヤクシマサツキ

野口雨情詩碑

野口雨情詩碑〜鹿屋小唄〜
鹿屋市北田城山公園の鹿屋城(鶴亀城)跡の広場に、野口雨情の詩碑が立つ。野口雨情は全国を行脚しながらその土地のご当地ソングを残しているが「鹿屋小唄」もそのひとつだ。雨情が鹿屋小唄を作るために鹿屋を訪れたのは昭和15年5月である。この時作った雨情の作品は、鹿屋市出身の音楽家伊地知二朗氏が作曲している。レコーデイングもされたがその後日本は戦争に突入。時局柄、いつの間にかうたわれなくなったらしい。今はうたわれなくなった歌だが歌詞の中には鹿屋の風景や風物が織り込まれ、当時のふるさと情景が偲ばれる。

野口雨情詩碑

野口雨情作詞の「鹿屋小唄」

写真中央が野口雨情 

当時の北田池

当時の寿の松並木

  • <楽譜はこちら>
  • 宿利原の寒干大根

    冬の風物詩 錦江町宿利原の寒干大根
    師走に入ると錦江町宿利原特産の寒干大根の生産が最盛期を迎える。大根の寒干し作業は12月初旬から2月初旬まで続けられ、冬の風物詩となっている。収穫された大根は、高さ約7m、長さ約50mの大きな櫓(やぐら)に吊るされ、約2週間ほどかけて乾燥させ、漬物用の大根として農家70戸が約二千トンの出荷を見込む。大根の種類は千里想(ほしりそう)という品名で、普通の大根より細長い形が特徴だ。宿利原の土壌が大根栽培に適しており、錦江湾から吹き上げる冷たく乾いた潮風も、大根の寒干しに好条件だという。今年も、地域活性化事業のひとつとして、地元自治会を中心に寒干大根ライトアップイベントが開催された。

    大根干し準備


    大根干し風景


    大根干しやぐら風景


    やぐら大根風景


    ライトアップやぐら風景


    ライトアップやぐら風景