歴史探訪(垂水編)

大隅照葉樹原生林の会が主催する垂水歴史探訪に参加した。中世の山城巡りや垂水島津家累代の墓地の見学は、垂水の歴史を知るいい体験になった。特に興味をひいたのは柊原貝塚の埋蔵遺跡だった。非常に保存状態がよく膨大な情報量を秘めた史跡なので今後の新たな発見に期待したい。宇喜多秀家潜伏跡地散策は、秀家がわずか二年あまりとはいえ、垂水の地に潜伏したその背景がおもしろく、改めて歴史をひもどくいいきっかけになった。

○柊原貝塚:柊原下にある遺跡で貝塚は貝のカルシューム分により通常の遺跡では腐敗してしまって残らない骨や種子などが残っている貴重な遺跡である。調査中、多くの出土品が発見され、この出土品自体も、当時の様子を知る上で貴重な資料であるということで平成24年(2012)4月、224点が鹿児島県指定文化財として指定された。

柊原貝塚発掘場所

○高城跡:肥後氏は種子島氏の祖となっている平性肥後守信基の支族で平清盛の曽孫とも言われている。高城は信基の二男、信行の築城とされ、時代は北条氏が執権となった初めごろと言われている。城主:肥後氏→伊地知氏→鎌田出雲守政近(パンフより)

高城の空堀がすごい

○垂水島津氏累代の墓地:垂水島津氏は伊佐島津の出である日新公忠良が島津氏本宗を乗っ取り、本宗となったが長男の貴久が本宗を継ぎ太守となった。二男が忠将である。忠将は永禄4年(1561)7月12日に福山廻城の合戦で討死したので、父日新公はこれをあわれみ忠将の子以久に下大隅の地(現在の垂水新城を主とする)を与えて垂水島津家を興さしめたのである。(石高19000石)代々島津氏の一門家として重きをなし、14代貴徳まで連綿として続き15代貴暢に至り明治維新を迎え華族に列せられる男爵となった。この墓地は垂水島津家累代の墓地である。(案内資料より)

垂水島津家累代の墓地

宇喜多秀家潜伏跡地:慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに敗れた西軍の大将権中納言宇喜多秀家は、徳川方の追求の目を逃れて島津を頼ってきた。義弘は秀家を牛根辺田の平野屋敷において辺田在住の郷士に監視と警備をさせた。秀家は休復となのり、足かけ3年間この地に滞在しその間毎日約3km離れた居世神社に日参し静かな生活を送った。秀家の滞在した家は宇喜多家屋敷と呼ばれた。島津家では家康に秀家の助命を嘆願したが許されず、更に幕臣山口尚友本田正信等を介して願い出た。家康は「これは島津の面目を潰さぬため赦す。」として秀家の助命を約し、駿河の国久能山に2年間幽門ののち八丈島に流した。秀家はそこで84歳で没した。潜居跡には小さな石室型の祠がたっている。(現地案内板資料より)

宇喜多秀家潜居跡平野屋敷


その他探訪箇所
○将軍地蔵 ○垂水城 ○陵 ○居世神社 ○牛根城